リレーエッセイ 本をめぐる物語 vol.04
リレーエッセイ 本をめぐる物語 vol.04
私が本を作ったわけ
尾見 紀佐子マザーディクショナリー代表/景丘の家
写真:鍵岡龍門

 この人の本を作りたい。
多くの人にその存在を知ってもらいたい。
そう思うような出会いは、そうあるものではない。

 私は、こどもと暮らしを共にする中で見えてくる新しい視点をコンセプトにしたmother dictionary(1988年創刊のフリーペーパーdictionaryの中の1コンテンツ)に関わり、そのなかで、"未来を明るく照らす知恵"をテーマにクリエイター職の母たちによる連載やものづくり、ワークショップにイベントなどを企画してきた。
 おもしろい、共有したい、と思うことを形にすべく、たくさんの方と出会いながら、できることは何でも経験させてもらっていた。

 そんな中でも、この人の本を作りたい!とひらめくような感覚ははじめてだった。その人とは、坂井より子さんである。

人生の転換期に出会ったひとりの女性

 より子さんと出会ったとき私は、先の見えない状況に置かれていた。

 私は、20歳で結婚、21歳で母になった。そして、年の離れた忙しい夫と実家から離れた東京で、ひとりきりで一生懸命に子育てに向き合っていた。可愛い3人のこどもたちと充実した日々を過ごしながらも、どう生きるか悩み、迷っていた。

 子育てを模索するなかで、さまざまな本を読んだり教室にも通ったけれど、私の子育てのお手本となっていたのは母だった。

 3人の母親という同じ立場になると、それまでは気づかなかった母への尊敬と愛と感謝をつくづく実感した。だからこそ、私が母にしてもらったことを受け継ぎ、自分のこどもたちに返したいと思うようになった。

 その後、念願だった仕事も少しずつ覚え、社会と繋がる喜びを得た。しかし、それでも自分のことよりも家族のことを優先し、良い母、完璧な妻になろうとして、気が付けば無理を重ね、笑顔が消えていた。そしてついには身体も壊してしまった。良かれと思ったことが、そうではない結果を生むこともあることを知った。

大丈夫、いいかげんでいいのよ〜

 そんな時に出会ったのが、より子さんだった。
「思い通りにならないのが子育てでしょ?」
「いいかげんでいいのよ~」
と、少女のような笑顔で柔らかに話すより子さんに出会った時、張り詰めていた気持ちがゆるんでいった。大丈夫、大丈夫と明るく受け止め、背中を押してくれるより子さんは、前に進む勇気をくれた。

 早く母になった分、そんな私自身の失敗や経験を活かしたい、お母さんたちの子育ての応援をしたいという思いがますます明確になっていった。

景丘の家には、尾見さんが幅広い世代に向けて選んだ書棚がある。
仲間と愛情を注いだ、幸せな本作り

 多くの親子と接する中で、気がついたことがある。こどもたちは、お母さんが笑顔でいること、心穏やかにいてくれることが何より嬉しいのだ。どんな立派な教育や環境を与えるよりもまず、お母さんの笑顔がこどもの心の安定につながると実感している。

 家事や子育てを楽しむための心の持ち方のコツを知っているよりこさんの本を作ることで、そのメッセージを広く伝えていきたいという思いは、渋谷区の施設「かぞくのアトリエ」の運営が決まり、初めての居場所づくりが進む中でもますます強くなっていった。そして構想から3年が経ったころ、理解してもらえる出版社と出会い、出版が実現したのは2015年のことだった。

坂井 より子 『受け継ぐ暮らし より子式・四季を愉しむ家しごと』
『暮らしをつむぐ~より子式・日々の重ねかた』(技術評論社)

 思いに共感してくれた友人が執筆を行い、まるでより子さんが話しているような語り口で文章を仕上げてくれた。信頼を寄せている長年の友人の写真家が、手間を惜しまず何度も現場に足を運び、愛情を持って写真を撮ってくれた。
 温かな雰囲気の撮影現場は、もちろんより子さんの人柄ゆえに他ならない。
 同じ思いを持つ仲間が集まり1年かけてじっくり本を作る過程は、幸福そのものだった。今でもたくさんの取材を受けるけれど、その皆さんがすぐにより子さんのファンになってしまう。

人生は、不思議で面白い

 かつては日本の家庭でどこにでもあった風景。母から娘へ受け継がれて来たこと。それら見つめなおす手がかりになり、誰かの気持ちが楽になったり、笑顔で過ごす時間が増えてくれたら、というより子さんの思いが溢れる本ができた。

 その本は発行以来、幅広い世代の方に手に取ってもらうことができ、5刷りまで版を重ねている。より具体的な内容になった2冊目も出版し、好評をいただいている。

 その間に私自身は、「代官山ティーンズ・クリエイティブ」「景丘の家」の運営も任せてもらい、日々、地域のこどもたちやお母さんたちとの交流を重ね、充実した日々を送っている。
 それはより子さんと出会った当時には想像もつかなかった展開である。
 人生は、なんて不思議で面白いのだろう。
 あのとき、諦めなくて良かった。

 最後により子さんの口癖を2つほどご紹介したい。
◎すべてよし
良いことも辛かったこともすべてがあったから今がある、すべて受け入れると楽になるわよ。
◎幸せを感じるクセをつける
ささやかな毎日の中にも小さな幸せはたくさんあるの。見つけられるかどうか、気持ちの持ちようで人生は変わるから。

 そんなメッセージを時々思い出しながら、心地良く過ごせる居場所づくりを楽しんで続けていこうと思う。

2019年4月に開催した「音と言葉のワークショップ」風景。
コロナ以前は、囲炉裏を囲んで食べた「こども食堂」。
「景丘の家」は、幅広い世代が交流する場。

(企画・編集 新谷佐知子/川内有緒)

恵比寿に関するQ&A

Q1恵比寿との縁は何ですか?
「景丘の家」は、もともとは個人の方の邸宅でした。家主だった故・郡司ひさゑさんの“子どもたちのために遺産を活用してほしい”という遺志を継承するために、2年前にあらゆる世代が交流できる施設として立て替えてオープンしました。私はその施設の立ち上げ準備から関わって来ました。準備はオープンの3年前から始めていたので、恵比寿に足を運んでこの場所のことを考えるようになってから、5年になりますね。今では、日々恵比寿に出勤して過ごしています。
Q2よく行くお店はどこですか?
コロナであまり開拓ができていないのですが、中華の「マサズキッチン恵比寿」は上品なお店で、時々行くことがありますね。「coyacoya」という中華料理もおすすめです。なかなか予約の取れないお店だったみたいなんですが、今はテイクアウトも始めたようです。
それと、ちょっと落ち着きたい時に、ウェスティンホテルの「ロビーラウンジ ザ・ラウンジ」にも行きます。レストランはかなり高級なイメージがありますが、ラウンジでお茶を飲むのは穴場でおすすめ。お庭が見えるソファーの席でゆっくりとハーブティーを飲むのはとっても良い時間ですよ。
Q3恵比寿の好きな場所はどこですか?
サッポロビール本社の脇に芝生の広場があるんですが、あそこは気持ちが良いですね。日に当たりたい時に、時々そこへ行きますね。景丘の家からサッポロ広場へ行く途中に楠がたくさんあったりして、心地いい。天気のいい日は、お弁当を買って、芝生を眺めながらお昼を食べたりもしましたね。
Q4恵比寿はどんな人たちがいる?
「景丘の家」の話しになりますが、こどもや親御さんはもちろん、いろんな世代の人がいらっしゃいます。地元のご年配の方々は、ご自宅の庭の花が咲いたら持って来てくれたり、子どもたちと卓球やお手玉をしたり。積極的に子どもたちに声をかけてくださるんですよ。「景丘の家」を作る時に、囲炉裏のまわりでおじいちゃんが小学生と将棋を打って、おばあちゃんが編み物を教えてくれるシーンを想像していました。オープン2年目くらいから自然とそういう方々が集まって来てくれるようになりました。ありがたいですね。日常の中で自然発生的にそういうことが起きるのが、とても大事だなと思っています。
Q5恵比寿の魅力は?
恵比寿ってネガティブなイメージがないんですよね。渋谷の中でもエリアごとに雰囲気が分かれると思いますが、恵比寿や代官山は「日の当たる感じ」がします。新しいものや刺激がありながらも、人も場所も穏やかな感じがして。環境も整っていて、明るくひらけている印象。案外歩いてみると下町の雰囲気も残っている街ですよね。それと、恵比寿愛のある人がたくさん住んでいるイメージがありますね。居心地がいいなあと感じます。
  • 尾見 紀佐子(おみ・きさこ)

    1970年、神奈川生まれ。専業主婦を経て、株式会社マザーディクショナリーの代表に。東京都渋谷区のこども・親子支援センター「かぞくのアトリエ」、青少年に向けた「代官山ティーンズ・クリエイティブ」、全世代交流の場「景丘の家」の運営を手がけるほか、旅と手しごとをテーマにした展示会「TRACING THE ROOTS」の主宰、マネージメント、出版、プロダクト制作などで新しい視点を発信している。https://motherdictionary.com

  • 景丘の家

    故郡司ひさゑさんから遺贈を受けた景丘の家は、“こどもと食”をテーマに、あらゆる世代が集まり、寄り添う居場所として、2019年に建て替えオープン。こども食堂やアートスクールを定期的に開催。1Fサロンにある囲炉裏の周りには、こどもからお年寄りまでが自然に集い、世代を越えた交流が生まれている。

    住所: 150-0013 東京都渋谷区恵比寿4-5-15
    利用時間: 火曜〜金曜 11:00〜19:00 土曜・日曜・祝日 10:00〜18:00
    *小学生以下の利用は18:00まで
    *未就学児のご利用には保護者の付き添いが必要です。
    *2021年5月現在、緊急事態宣言により、閉館時間が17時となっています。
    詳しくは、WEBサイトをご確認ください。
    休館日: 月曜、第2日曜、年末年始(12/29〜1/3)
    ※月曜が祝日の場合は休館となります。
    TEL: 03-6455-7835
    URL: https://kageoka.com/

2021.5.21