子を連れてベビーカーをごろごろ押しながら、昔ながらの商店街や動物園を歩く。『ごろごろ、神戸。』は写真家・文筆家の著者が、そんな平凡で愛おしい日々を綴ったエッセイ。40代の子育てのしんどさをぼやきながら彼は、いつか消えていく町並みや日ごとに成長する我が子を見つめ、小川に手のひらで堰をつくるように流れていく時間を書きとめる。「冷たいカップをほっぺたにくっつけて笑い合った事も、やがて子供の記憶からは綺麗に消えていく。その儚さもまた、夏っぽくて良い」。ノスタルジーとリアルを行き来する、乾いた叙情が心地よい。
記憶は儚いものだ。けれどもし、人生のすべてを記録できるツールが開発され、完全な記憶を得ることができたとしたら─。そんな近未来を描いた短編など9つの物語を収録したのが『息吹』。著者のテッド・チャンは、映画『メッセージ』の原作者として一躍その名を知られた気鋭のSF 作家。あり得るかもしれない空想世界の高揚と「人間とは何か」という深い思索が共存する、最先端の知性にしびれる。
先の短編には、文字をもたなかったアフリカのティヴ族のエピソードが描かれるのだが、そうした文字のないマイナー言語の研究調査の裏側を記したのが『現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき。』。パキスタンやインドの山奥へ行くのが仕事だが、内向的な性格ゆえ、いつも「出発前から早く家に帰りたいと思っている」と著者。その悪戦苦闘ぶりにプッと吹きだしながら、遠い国の多様な言語が教えてくれる世界のふしぎに圧倒される。
1.『 ごろごろ、神戸。』 平民金子 ぴあ ¥1,760
2.『息吹』 テッド・チャン著 大森望訳 早川書房 ¥2,090
3.『現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき。』吉岡乾 創元社 ¥1,980
文・矢部智子
ライター。著書に『東京建築散歩』など。先日、『東京人』5月号の長谷川町子特集で、祖父江慎さんと大島依提亜さんの対談原稿を担当。デザイナーが語る長谷川町子論が刺激的でした!