この人の本を作りたい。
多くの人にその存在を知ってもらいたい。
そう思うような出会いは、そうあるものではない。
私は、こどもと暮らしを共にする中で見えてくる新しい視点をコンセプトにしたmother dictionary(1988年創刊のフリーペーパーdictionaryの中の1コンテンツ)に関わり、そのなかで、"未来を明るく照らす知恵"をテーマにクリエイター職の母たちによる連載やものづくり、ワークショップにイベントなどを企画してきた。
おもしろい、共有したい、と思うことを形にすべく、たくさんの方と出会いながら、できることは何でも経験させてもらっていた。
そんな中でも、この人の本を作りたい!とひらめくような感覚ははじめてだった。その人とは、坂井より子さんである。
人生の転換期に出会ったひとりの女性
より子さんと出会ったとき私は、先の見えない状況に置かれていた。
私は、20歳で結婚、21歳で母になった。そして、年の離れた忙しい夫と実家から離れた東京で、ひとりきりで一生懸命に子育てに向き合っていた。可愛い3人のこどもたちと充実した日々を過ごしながらも、どう生きるか悩み、迷っていた。
子育てを模索するなかで、さまざまな本を読んだり教室にも通ったけれど、私の子育てのお手本となっていたのは母だった。
3人の母親という同じ立場になると、それまでは気づかなかった母への尊敬と愛と感謝をつくづく実感した。だからこそ、私が母にしてもらったことを受け継ぎ、自分のこどもたちに返したいと思うようになった。
その後、念願だった仕事も少しずつ覚え、社会と繋がる喜びを得た。しかし、それでも自分のことよりも家族のことを優先し、良い母、完璧な妻になろうとして、気が付けば無理を重ね、笑顔が消えていた。そしてついには身体も壊してしまった。良かれと思ったことが、そうではない結果を生むこともあることを知った。
大丈夫、いいかげんでいいのよ〜
そんな時に出会ったのが、より子さんだった。
「思い通りにならないのが子育てでしょ?」
「いいかげんでいいのよ~」
と、少女のような笑顔で柔らかに話すより子さんに出会った時、張り詰めていた気持ちがゆるんでいった。大丈夫、大丈夫と明るく受け止め、背中を押してくれるより子さんは、前に進む勇気をくれた。
早く母になった分、そんな私自身の失敗や経験を活かしたい、お母さんたちの子育ての応援をしたいという思いがますます明確になっていった。
景丘の家には、尾見さんが幅広い世代に向けて選んだ書棚がある。
仲間と愛情を注いだ、幸せな本作り
多くの親子と接する中で、気がついたことがある。こどもたちは、お母さんが笑顔でいること、心穏やかにいてくれることが何より嬉しいのだ。どんな立派な教育や環境を与えるよりもまず、お母さんの笑顔がこどもの心の安定につながると実感している。
家事や子育てを楽しむための心の持ち方のコツを知っているよりこさんの本を作ることで、そのメッセージを広く伝えていきたいという思いは、渋谷区の施設「かぞくのアトリエ」の運営が決まり、初めての居場所づくりが進む中でもますます強くなっていった。そして構想から3年が経ったころ、理解してもらえる出版社と出会い、出版が実現したのは2015年のことだった。
坂井 より子 『受け継ぐ暮らし より子式・四季を愉しむ家しごと』 『暮らしをつむぐ~より子式・日々の重ねかた』(技術評論社)
思いに共感してくれた友人が執筆を行い、まるでより子さんが話しているような語り口で文章を仕上げてくれた。信頼を寄せている長年の友人の写真家が、手間を惜しまず何度も現場に足を運び、愛情を持って写真を撮ってくれた。
温かな雰囲気の撮影現場は、もちろんより子さんの人柄ゆえに他ならない。
同じ思いを持つ仲間が集まり1年かけてじっくり本を作る過程は、幸福そのものだった。今でもたくさんの取材を受けるけれど、その皆さんがすぐにより子さんのファンになってしまう。
人生は、不思議で面白い
かつては日本の家庭でどこにでもあった風景。母から娘へ受け継がれて来たこと。それら見つめなおす手がかりになり、誰かの気持ちが楽になったり、笑顔で過ごす時間が増えてくれたら、というより子さんの思いが溢れる本ができた。
その本は発行以来、幅広い世代の方に手に取ってもらうことができ、5刷りまで版を重ねている。より具体的な内容になった2冊目も出版し、好評をいただいている。
その間に私自身は、「代官山ティーンズ・クリエイティブ」「景丘の家」の運営も任せてもらい、日々、地域のこどもたちやお母さんたちとの交流を重ね、充実した日々を送っている。
それはより子さんと出会った当時には想像もつかなかった展開である。
人生は、なんて不思議で面白いのだろう。
あのとき、諦めなくて良かった。
最後により子さんの口癖を2つほどご紹介したい。
◎すべてよし
良いことも辛かったこともすべてがあったから今がある、すべて受け入れると楽になるわよ。
◎幸せを感じるクセをつける
ささやかな毎日の中にも小さな幸せはたくさんあるの。見つけられるかどうか、気持ちの持ちようで人生は変わるから。
そんなメッセージを時々思い出しながら、心地良く過ごせる居場所づくりを楽しんで続けていこうと思う。
2019年4月に開催した「音と言葉のワークショップ」風景。
コロナ以前は、囲炉裏を囲んで食べた「こども食堂」。
「景丘の家」は、幅広い世代が交流する場。
(企画・編集 新谷佐知子/川内有緒)